たこちゃん、三たびの沖縄行き(その14)
ほいほい!ようやく、どうにか昨晩はブログの引っ越しも無事に済みましたが、他のシゴトのすきまを縫っての更新作業だったんで、ホント首の皮一枚で繋がったと云ったところでした。常勤コメンテーターの皆さんからの大量コメント投下によってパンクするコトもなく(笑泣)、どうにか新しいサーバへのお導きが出来たのは、つとに喜ばしい限り。
・・・と、コレを機会に「結局頓挫するのであらう」との大方の予想を裏切って(笑)、中断しておりました”たこちゃんズGW沖縄行”の記事を再開してまいろうと思っておりますヨ。気が付けば、“Part3”でのアクセス地域ランキングでは沖縄県が2位にまでランクアップしておりましたからね、昨日からすべてが出直しとなった当ブログでも頑張らなくっちゃ。
(ここから、前回の続き)ところで、書いてるワタシ自身も、日々現実の日常業務にノーミソを洗われる中、すでに楽しい旅行のコトなどは忘却の彼方と化しているのですが・・・ああ、前回の記事では、5月1日(日)の夜までイッてたんですね。で、本日は5月2日(月)の朝、“おもろまち”に位置する(那覇新都心店の方)とあるガストでモーニングを楽しんでるの図から。なんでもないフツーのガストなのに、東京のと雰囲気が違いますね。なんかこう、朝から時の流れがゆったりとしていました。
・・・ところで、本日は少しばかり柄にも無く真面目なんですが、この日の朝に訪れた沖縄本島中部、宜野湾市にある嘉数高台公園(かかずたかだいこうえん)内で、いまだ生々しい70年前の戦争の爪あとを目の当たりにして、ある種の衝撃を受けたハナシです。
沖縄戦最大の激戦地のひとつに数えられる嘉数高地・・・先の大戦中に作戦名称:第七〇高地と命名されていた嘉数高地では、藤岡武雄中将が率いる第六十二師団独立混成旅団を中心に、本島防衛のための精鋭部隊を編成。上陸してきた米軍を食い止めるべく1945年4月8日から16日間もの間を戦い抜きました。特に京都の御出身者が多かったとの事で、当地には慰霊顕彰する碑が建っておりました。
自然の地形を生かした堅固な要塞を点在させる陣地構築がなされて徹底抗戦。十六日間も一進一退の死闘が繰り広げられ善戦しましたが、遂に日本軍は力尽き後退、しかしながら、米軍将兵にとっても「死の罠」「いまわしい丘」と呼ばれて恐れられる場所となりました。
実に両軍併せて10万人もが命を落としたという嘉数高地。日露戦争での二〇三高地に於ける激戦とも並び称されるほどの戦闘であったと云われているそうです。しかしながら、二〇三高地は映画などの題名として有名ですが、こうして当地に赴くまでは嘉数高地での激戦を知りませんでした。
公園内の随所に残るトーチカや、それらに刻まれた夥しい数の弾痕が、往時の戦闘の凄まじさを物語ります。いまや美しい緑に囲まれた眺望絶景の公園となりましたが、“10万人の命”の重さに胸は詰まります。ただただアチコチで手を合わせながら園内を歩きました。ちょうど、アメリカ軍の若き兵隊さんたちと思しき人々が弾痕の残る壁の前に整列して、“鬼軍曹”みたいな風貌と物腰の赤ら顔のオッサンから大声でレクチャーを受けてる様子でした。しばらく一服をくゆらせながら、風に乗って運ばれてくる英語でのレクチャーを聞くともなく聞いていましたが、なんか当時の戦況を大袈裟な身振り手振りを交えて大言壮語してたみたいでした。それぞれの立場はありましょうが、今現在お互いに分かりあう努力をするのも、ここに眠る両国将兵さん方に報いる道なのかなと・・・。色々と問題のある現地での昨今、オバマさんが広島のみならず沖縄にも立ち寄ってくれたらと、先日ニュース見てて思いましたが、こんなムーブメントもあったなんてちっとも知らなかったケド、ちょっと素敵な出来事だと思いました。心ある人々との草の根レベルでの交流は、何としてでも続けていきたいものです。
それじゃー、また明日。
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